退職したときのこと

みなさん、こんにちは。

前回からの続きになります。

前回のブログ↓

大学卒業後の就職先で、山道での帰り道で車を縁石に乗り上げてしまった出来事以降、このままこの仕事を続けていくと、いつか大きな事故を起こして大変なことになると感じ、やむなく退職しました。

会社には眼が悪くて退職するとは言えず、「一身上の都合で」と言い訳して退職しました。

上司や所長もとても可愛がってくれ、期待もしてくれていた分、とても心苦しかったです。

「さぁ、辞めてからどうしよう・・・」

その当時は、熊本で一人暮らしをしていました。

前回でも書いたように、視覚障がいのことは友達にも伝えていないので、本当の意味での人生相談をする相手もいません。

今の自分、これからの自分を考えて、どう進んでいけばいいか悩む日々が続きました。

退職後、ハローワークで様々な職種の求人票を見ましたが、自分自身がどうしたいのか定まっていないので、ピンとくるものもありませんでした。

悩んだ結果、一度実家に戻って再出発しようと決めました。

今思えば、この時点で本当に自分の障がいや将来のことについて自問自答していれば、熊本で新たな道を見つける選択もあったと思います。

「なぜそうではなかったのか・・・」

このブログを書くにあたって改めて当時のことを振り返りました。

本当の意味で心を開いて話せる人もおらず、熊本にいることが辛くなっていたこと。

実家に戻ることで楽になると感じたこと。

つまり、「今の環境からの逃げ」の心があったのかと思います。

当時はそんな「逃げ」の心があることには気づかず、一大決心をして行動していると思っていましたが、心の奥底にはそのような自分の弱さもあったと今は感じています。

地元宮崎に戻ってからは、改めてどのような仕事をしようか悩んでいました。

営業や車の運転が主な仕事は勿論、細かい作業や動きの多い仕事も少しずつ視力、視野が狭くなることを考えるとあまり選択肢の中には入れることはできない。

その条件で仕事を探してみると、ほとんど仕事がないことを知り、ショックを受けました。

何度もハローワークに足を運んで、どのような求人があるか、新しく更新されたものがないかを探していました。

会議・ミーティング

そんな中、パソコンインストラクターの求人を見つけました。

屋内での仕事であり、パソコンも好き、昔から人に教えることも好きだったので、条件に合うと思い挑戦し、内定をいただきました。

ただ、自分が網膜色素変性症であることは、やはり言えずにいました。

次回も読んでいただけたら嬉しいです。

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